2CVと過ごす週末・・

TPVプロジェクト・6
戦時下でのTPV開発

1940年、ドイツ軍によるTPVプロトタイプに関する尋問で、ピエール・ブーランジェは占領軍への協力をかたくなに拒否し、供述を拒んだ。

 ドイツ占領軍は、ピエール・ブーランジェがTPVプロトタイプの供述を拒否し続けたため、その仕返しとして、半ば「あてつけ」でVWビートル・プロトタイプをフランスに持ち込んだが、この時ピエール・ブーランジェは”覆い”でこのプロトタイプを包み込んでしまい、誰も見られないようにしてしまった、と言われている

同時にこの時、1台を除き残り249台の市販試作モデル(TPVプロトタイプ)の破壊を画策したと思われる。

 1941年末、戦況は終戦までまだ遠く、長引くのは明白になってきた。 ピエール・ブーランジェ自身、TPVの再生産計画の準備を続けることは無理だと、確信していた。

 なぜなら、1939年仕様のTPVは、その後の資材の値上がりのため、当初の試算より40%以上コストが高騰してしまったのである。

 TPVの再生産を行うには、生産コストの削減が必要不可欠になり、ジャン・カデュー率いるリサーチ部門と、生産コスト削減の検討会を開いた。

最初に提案された打開策は、軽量アルミニウム構造はあきらめて、軽量スチール構造に変更する、という案で、当時のボディ担当責任者・モーリス・スティクスは、軽量スチールボディのTPVの図面を要請を受けて描いた。

 ピエール・ブーランジェとアンドレ・ルフェーブルは「マグネシウム・サスペンション・アームを採用した、アルミ製自動車」を死守しようと、「これらの材質を使用した車は、防錆・耐腐食性に優れている」ことを力説して擁護したが、退けられてしまった。

1939年型プロトタイプ
(1939年型TPV市販試作モデル)

この有名なプロトタイプも1948年、2CVのパリサロン発表によって役目を終え、ブーランジェの「全てのTPV プロトタイプ処分命令」によって他のプロトタイプと一緒に破壊されるハズだった。

しかし、「保存したい」と考えたアンリ・ロリダン/チーフ・テストエンジニアが「ボディの長期"サビ"テストを行う、と偽り隠していた車両で、シトロエン社は発見されるまで、自社の倉庫に現存している事を知らなかった。

1960年代後半に分解されたボディが発見された時、エンジン。その他のパーツも倉庫の箱の中に隠されていたという。

しかしながら、これらのTPV生産計画の再開を実現するには、被占領の終結まで待たなければならなかった。

たとえ、占領しているドイツ軍がシトロエンに再生産の許可を与えても、テストのための資材や燃料が不足していたため、開発はとても無理な状況だった。

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