シトロエン社はドイツ・DKW社の管理下に置かれ、しかも資材や燃料不足で、TPV生産計画の再開は到底無理な状況であった。 ピエール・ブーランジェはイギリスのランド・ローバー社に対抗するため、専用ホイール、別のメカニズムを搭載したTPV代用モデルを真剣になって検討したり、1942年には来るべきTPVと7CVトラクション・アバンの隙間を埋めるため、500ccまたは1000ccエンジンを搭載した「スーパーTPV」構想を練っていたと言われている。 この間、プロトタイプの外観は、少しづつ1939年製作の市販試作モデルから変化しはじめていた。 戦時下のTPVは、主に3つの大きな構造変更を受けて、後の生産モデルに近い、1948年発表のパリ・サロンデビュー・モデルへと近づく事になった。 1941年初頭、タルボ社からシトロエンに移籍いたワルテル・ベッキアは、1943年キャブレター・スペシャリスト、リシュアン・ジラールをタルボ社から連れてきた。 |