2CVと過ごす週末・・

TPVプロジェクト・7
3つの構造変更・エンジン

 シトロエン社はドイツ・DKW社の管理下に置かれ、しかも資材や燃料不足で、TPV生産計画の再開は到底無理な状況であった。

 ピエール・ブーランジェはイギリスのランド・ローバー社に対抗するため、専用ホイール、別のメカニズムを搭載したTPV代用モデルを真剣になって検討したり、1942年には来るべきTPVと7CVトラクション・アバンの隙間を埋めるため、500ccまたは1000ccエンジンを搭載した「スーパーTPV」構想を練っていたと言われている。

 この間、プロトタイプの外観は、少しづつ1939年製作の市販試作モデルから変化しはじめていた。

 戦時下のTPVは、主に3つの大きな構造変更を受けて、後の生産モデルに近い、1948年発表のパリ・サロンデビュー・モデルへと近づく事になった。

 1941年初頭、タルボ社からシトロエンに移籍いたワルテル・ベッキアは、1943年キャブレター・スペシャリスト、リシュアン・ジラールをタルボ社から連れてきた。

 ドイツ占領下のタルボ社では、2人の活躍の場はほとんど無くなってしまったが、2人ともヨーロッパでは優秀で豊富なスペシャリストだった。

 ベッキアはプロトタイプに採用されていた水冷エンジンが不満だった。モーリス・センチュラの設計した水冷エンジンは、パワー不足だと不満に思っていたが、何より最大の問題点は、5℃以下の気温になると、エンジンがても掛かりにくい事だった。

1944年、打開策としてセンチュラの設計した水冷エンジンの代わりに、空冷エンジンの採用を提案した。

 限られた時間の中で、ワルテル・ベッキアは、オリジナルと同じ375cc水平対向レイアウトの空冷エンジンを設計し、その試作エンジンは1944年9月、パリがドイツ軍から解放された直後テストに移された。

テスト・ベンチではエンジンはフル・スピード状態でテストされた。

TPV・プロトタイプの水冷エンジン

パワー不足気味で、低温での始動性に最大の問題があった。タルボ社から移籍したワルテル・ベッキアの設計による空冷エンジンに変更された。

なぜなら、ワルテル・ベッキアは将来TPVオーナーはアクセル全開のフル・スピードで運転する、と予想していからだった。

 シンプルな構造の、この空冷エンジン・ユニットは優れた”始動性”と良好な結果を収め、センチュラの設計した水冷エンジンは、その後真剣に採用を検討される事はなかった。

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