TPVにタイロッドで前後を関連させたトーションバー・サスペンションが搭載された。 このトーションバーサスペンションは前後のバランスをとるため、慎重なバランス調整が必要だったが、とてもソフトな足廻りを可能にした。 ブレーキペダルには、複雑な油圧式アンチ・ダイブ・システムが取り付けられていた。 しかし、故障が多く、テスト・ドライバー達は、いつもこの油圧式アンチ・ダイブ・システムの故障を念頭にいれてブレーキングしていたと言われている。 TPVプロジェクトのエンジニア達は、軽量化に伴う問題に直面する事になった。その1つが、サスペンションの荷重変化だった。 とてもソフトで快適なサスペンションであったが、一方で荷物を積み込んだ場合、リアサスペンションに2本の”つっかえ棒”を入れて支えてやる必要があった。 もっとも深刻な問題は、テスト・ドライブの際、ルフェーブルから指摘されていた、新設計のアルミニウム・プラットフォーム・シャーシだった。 ねじれや溶接部分の剥がれの問題を克服しておらず、このアルミニウム・プラットフォーム・シャーシ構造を実現するには、エンジニア達は少なくとも43台目のプロトタイプ製作までに、新しい溶接技術の開発に迫られた。 TPVエンジニア、ジョルジュ・サロはルフェーブルにフロントとリアに、補強のための2本のクロスメンバーを入れる説得をしなければならなかった。 そのため、車重は徐々に重くなってしまった。 軽量化実現のため、アルミニウムを使った奇抜で素晴らしい企画も、現実に直面している、さまざまな問題のため実現困難になってしまった。それにもかかわらず、ブーランジェは1938年8月、シトロエン社の筆頭株主のミシュラン一族と"TPV生産計画"の協議を行い、1939年5月・TPV生産開始、7月には秋季に向けて日産250台生産体制確立に意欲を見せた。 ブーランジェの自信とは裏腹に、TPVは公に公表するには、まだほど遠い段階であることは明白だった。 組立工員の確保も出来ていないうえ、5月には日産250台体制に向けて生産開始するはずのルバロア工場では、すでにシトロエンのバスとトラックの生産を行っていたのだった。 しかも、当時最先端の技術を凝縮した車体構造、手間のかかるアルミニウムのスポット溶接、精密なボディの型がないため、工員の手作りに頼るハンドメイドのボディ・パネル・・・・・・・。 1938年、ブーランジェは試作として、250台のTPVの生産を指示した。 それは、工場の工員にとっては、災難と言えるような注文だった。 |