1938年、ブーランジェは試作として、250台のTPVの生産を指示は、工場の工員にとっては、災難と言えるような注文だった。 なぜなら、だれ一人アルミニウム加工を好まなかったうえ、搬入される予定だったドイツのAEG社製が開発したアルミニウム溶接機がドイツから届かなかったため、溶接工達は従来のスチールパネル用の溶接機を使用してアルミ溶接をしなければならなかった。 そのため、パネルが焼けて穴が開いてしまったり、工員達は肌に炎症を起こしたりしてしまった。すべての作業を手作りで進めなければならず、せっかくのローコストのアイデアも、計算通りには進まなかった。 さらに第2次世界大戦の状況は8月には絶望的になり、人々はパリから地方に疎開しはじめていた。 1939年9月3日午前11時、生産計画の遅れが生じていた、1台のTPV”市販”試作車が、ルバロア工場の生産ラインから生み出された。 同時刻、イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告を行った。 TPV市販試作車がライン・オフしてすぐにドイツとの戦争に突入したため、工員達は戦争に動員され、すぐさま工場は稼働停止になってしまった。 そして、この唯一のTPV市販試作車もどこかへ姿を消してしまった。 (1942年、このTPV市販試作車がパーツを満載して、まだ占領軍に見つかっていないニオールにあるシトロエン社の倉庫へ向かう途中、路上エンコしてしまい、人々に目撃され、注目されてしまった、と言われている。) 1939年、フランスがドイツに宣戦布告してからの2年間はシトロエン社のパリからニオールへの撤退、ナチス・ドイツ占領下での生産継続の困難といった、TPVにとってはほとんど進展の無い期間だったように思われる。 ナチス・ドイツはパリを占領し、シトロエンはドイツのDKW社の管理下に置かれた。 ピエール・ブーランジェはドイツ占領軍がTPVをベースにして、ドイツのために機動力に富んだクロス・カントリー・ビークルを生産するのではないか、と心配していたと言われている。 ピエール・ブーランジェはドイツも国民車としてフォルクス・ワーゲンの開発を進めており、当時、TPVよりかなり開発が進んでいたこと、またフランスよりかなり”しっかりした”車を作るだろう、という事も心配していた、と言われている。 第1次世界大戦のパイロットだったピエール・ブーランジェは、反ドイツの姿勢を貫き、占領軍に供出するシトロエン車、特にトラックは意図的に生産を遅らせたり、手抜きをしたりして、品質を落としたりしていた。 |